「自然」、これは響きの言い言葉で、「自然を大切に」がしばしば謳われるものの、あまりにも趣のない答えが多いのも確かである。
地球がサステイナブルであるために我々に課された宿題も多いが、それにもまして、の力の偉大さは自然を破壊すると言われる人間の力の及ばないところも大きい。
人間、社会、地球の三つの要素が影響を及ぼしあって環境を作り出しているが、単なる「自然を愛する」の言葉で終わることのなく、地球が活きると人類が活きるを求め続けることは、「智の木協会」のメンバーに期待されているところでもあろう。
「智の木」は、単に植物としての「木」を意味するものでなく、人が積み重ねた「智慧」の集まりを意味し、いろいろな局面でそれを活用することがメンバーの「望み」でもある。
ただ、「木」には重みがあり、人類の生存を超えるはるかなる長さを生きてきた木は、時として思慮及ばない大きさを持つともいえる。
風景としての木々は、人々に安らぎを与える。
その中にあって、一番の思い入れの木はと聞かれると、その土地にあっての風景としての木々は、それぞれに思い出深い。
ハワイ・マウイ島のバニヤンツリーの大樹、ヨセミテ公園のセコイアの大木、ブラジルの国花ノウゼンカズラ科のイペー、沖縄で見た泰山木の大きな花、などなど、その場その場にあっての木と花なのであろう。
さすれば、日本での想いを抱かせる木とはと問われると、答えるのが難しい。
ただ、我が国は四季があり、その季節を一番に感じさせる木と言えば、「桜」と「紅葉」では無かろうか。
君が代は国歌であるが、海外では日本の国歌は、「君が代」よりは「さくらさくら」かもしれない。
国歌でなくて国花の印象かもしれないが。
海外の地元の民芸ショーなどでは、必ず日本の紹介にさくらさくらが演奏されるのを見てもそうなのであろう。
サクラは、バラ科サクラ属で、ウメ、モモ、スモモ、アンズなどを除く、主として花を観賞する植物の総称でもある。
我が国には、桜の名所が点在しており、名所でなくとも日本そのものがサクラづくしとなるのが春でもある。
「サクラ」の名の由来については、「コノハナサクヤビメ」のコノハナがサクラを指し、サクヤが転じて「サクラ」に(本居宣長説など)、とか、古歌が転じたとか言われる。
サクラといえば、今はソメイヨシノかも知れない。
そのサクラの開花時期は短く、高々一週間程度であろう。
「時期を得た好機」などに、そう訪れられるものではない。
我が国では、桜前線が3月末から5月初めにかけて北上する。
このような情報が大々的にテレビで放映されることも珍しいもので、それほどに関心の深さが感じられる。
大阪にあっては、造幣局の通り抜けの八重桜は、まさに、浪速の春を飾る風物詩となっていて、夜間のライトアップには訪れる人も多く、屋台が川沿いに並ぶのである。
毎年開花時期を予測して、通り抜けの期間が決められるが、昨年は、見事に満開直前の傷みのない見事な時期が選ばれた。
通り抜けは、造幣局構内旧淀川(大川)沿いの全長560mの通路が1週間開放される。
現在は、構内には、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、黄桜、楊貴妃など約120品種、約370本もの桜が花を付けている。
大半は遅咲きの八重桜である。
明治16年に「通り抜け」が開始されたとかで、昭和58年春には100年を迎え、紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などの他では見られない珍種も多くある。
桜の中でも、一重のソメイヨシノも、木一面に真っ白に花を付け、木あるいは木々の集まりとしての美しさが、また、枝垂れ桜(平安神宮のしだれは魅力)は、小さな花が、垂れ下がる枝一面につけ、白い花の滝を形作る美しさがある。
それに対して、八重桜、特に造幣局に多い大型の八重桜では、一つの花が美しく、また、それが花のボールのようにかたまった美しさは、ソメイヨシノと違ったものである。小の集まりと大きなものの塊の違った観点からの大・小対比ともいえる。
一方、秋が深まると「もみじ」の季節となる。
もみじといえば高尾といわれるほどに神護寺の紅葉は美しい。
神護寺への急な坂道を上り、最後の階段の上には元和9年建立とされる楼門に至る。
階段付近は木々に覆われ薄暗い感じで、まだ色づく前の黄色いもみじの葉を空に透かして楼門と一緒に眺めるのも風情がある。
その楼門を入ると広い参道とその回りに見事に色づいた紅葉が目に飛び込んでくる。
カエデは、ラテン語でAcer (アケル)で、“裂ける”の意味で、葉が切れ込んでいることに由来するらしい。
英語のmapleは、ラテン語に近い独・仏・伊語とかなり違っている。
日本ではカエデは、一般に「楓」の文字が当てられるが、植物学的には「槭」である。
この楓は、同じような葉の形を持つ「フウ」の木の漢字が「楓」であるためである。
でも、全てのフウがカエデではないのだ。
その楓が、日本では何故「もみじ(紅葉)」なのか。
まず、カエデは、万葉集の「かえるで」から来ているといい、カエデが、秋になって葉が紅くなることから紅葉する樹木をもみじというようになったという。
カエデの中でも、イロハもみじ、ヤマもみじ、オオもみじなど、葉が5つ以上に切れ込んで掌状のものをもみじと呼ぶこともある。
この定義でいくと、東福寺もみじは「もみじ」でないことになる。
東福寺の黄色くなるもみじは、中国から持ち運ばれたものであり、その意味ではフウなのである。
紅葉は、鮮やかな赤色に染まり、全体が真っ赤な感じとなるのも素晴らしいが、神護寺のもみじは、1本の木でありながら緑から黄緑、赤緑、それに真っ赤な色までの複合的な色合いのグラデーションを示しており、この色の対比がまた美しい。
海外ではあまり見られない真っ赤なもみじもいいが、多様をよしとするか、均一をよしとするかは、単純に比較することは難しいものである。
もみじといえば、NHKの大河ドラマ「天地人」で、直江兼続は、わずか五歳で景勝の小姓となったが、雲洞庵に入るときには「行きとうない」と必死で訴え、その泣き顔に、母親のお藤が主従の関係をもみじに例えて説得する場面がある。
“燃え上がるようなあの色は、わが命より大切なものを守るための決意の色。そなたは、あのもみじになるのです。もみじのような家臣になりなされ。”と。
もみじは、葉を落として、冬の寒さに耐える主木を助けるのである。
桜といい、紅葉といい、四季があっての木々であり、その木々にとっての一瞬の時の「春」と「秋」を人々は愛でて楽しむのである。
ただ、「愛でる」は、その人の想いの表れであり、常から愛でる気持ちでいたいものである。
智の木協会 理事長 豊田政男(平成21年4月21日)
コメント