第九回:智の木協会理事 吉信 勝之 「植物と家紋」

 智の木協会=植物のイメージがあります。私が智の木協会に誘われた時に自分のシンボルとなる植物を決めるようにお話がありました。普段、植物とはあまり縁の無い私が思いついたのが「片喰(かたばみ)」、すなわちわが家の家紋です。

 丸に剣片喰(わが家の家紋)

 私の出身は岡山県備前市です。そこで、家紋の剣片喰について調べてみますと、戦国時代から安土桃山時代に備前国を治めていた宇喜多家の家紋が剣片喰です。家紋が同じで、実際どのような関係にあるかはわかりませんが、今後調べていきたいと思います。

さて今回は、智の木協会への投稿ですので、植物と家紋について書かせていただきます。

 家紋と言われても、現代の人にとってはあまり関りがなく、日々の生活では馴染みが薄いものです。家紋を意識するのは、冠婚葬祭の時ぐらいではないでしょうか。普段は、自身の家紋を知らずにいる方も多くいらっしゃると思いますが、現在確認されている家紋は25,000個以上にものぼります。

 家紋の歴史について調べてみますと、その発祥は公家と武家の二つからなっており、それぞれが違ったルートで生まれています。

公家の場合は平安時代、朝廷に仕えた公卿たちが牛車で参内していたため、都大路や内裏前の広場が非常に混んでしまいました。そのため他の家の牛車との区別がしやすいようにと、それぞれの家のゆかりの文様を車に描く事になりました。はじめは一代だけのものでしたが、時が流れるにしたがって、子孫がそれを受け継ぐようになり、牛舎だけでなく身の回りの道具等に家紋を入れるようになり、これが公家由来の家紋の発祥とされています。

このようなパターンの家紋において、最も古い家紋として確認されているのが、西園寺家の「巴紋」で、長元5年(1032)-寛治(1091)の間に確立したようです。

      

左三つ巴

このパターン以上に多いのが、衣類などに描かれている文様を家紋にしたパターンです。「藤」・「龍胆」・「片喰」・「楓」・「銀杏」・「鶴」などの家紋がそれに当てはまります。

それ以外には、元々出来上がっている文様を家紋にしたのではなく、祖先が飾った名誉などを記念してできたパターンがあります。その名誉を表す象徴的なものをモチーフにして独自の家紋をデザインしたのです。

次に武家の場合は、武家らしく戦が最初の家紋発祥のきっかけとなっています。

武家の家紋の確立は鎌倉時代で、その確立前の戦である源平合戦の際、両者を区別するために使われていたのは旗で、文様などはなく、源氏は白、平家は赤となっていました。

武家の最古の家紋は源氏の「龍胆」と平氏の「蝶」とされているので、両者の戦の最中に家紋が生まれたと考えられます。

鎌倉時代に入ると、武家が公家に取って変わり、政権を握るようになりました。それに伴って公家の家紋も表に出なくなっていきました。鎌倉中期には、幕府に従える武士たちは、それぞれ自分の家紋を持つようなり、全国にそれが広まっていきました。

室町時代に入ると、家紋は戦をするうえでより増大していき、社会的にも大切な意味を持つようになっていきます。

その後、戦国時代へ突入で同族同士の戦いが激しくなり、家の区別をはっきりさせる必要がありました。家紋はそれをするのに適役だったわけです。この頃に非常に家紋の種類が増え、形も写実的なものから抽象的なものになっていきました。

江戸時代は、家紋の使用が最も拡大した時代でした。武士の通常礼服は肩衣袴になっており、参勤交代もありました。その際、地方の武士がどこの者かがわかりやすいように、肩衣に家紋を入れて染めるようになりました。その流れで家紋が紋章化し、形も対称的になっていき、紋を丸で囲んだものもこの時代に増えました。

元禄(1688~1703)のころになると、平和で経済的にもゆとりができ生活を楽しむ中でより美しい衣類を求める風潮が起きました。それは庶民も同じでした。参勤交代で江戸へ着いた武士の肩衣の紋を見て、それをマネしたり、自分で紋をデザインしたりして衣類に家紋をいれる風習ができていきました。

徳川幕府の葵紋の使用は、堅く禁じられていましたが、それ以外は自由に家紋という物を楽しんで扱っていました。

結果、目新しい紋が急激に増える事になったわけです。
明治時代に入ると幕府は政権を失ったので葵紋の格は落ちる事になります。代わりに皇室の菊紋の格が上がることになりました。

明治元年3月28日「太政官布告第195号」で皇族以外の菊花紋の使用を禁じ、次の年には皇室の紋は16弁八重の表菊になりました。

その後、太平洋戦争が終わると、民主主義が広まり、新しい憲法により家族制度が廃止となり、そこから家紋は社会にとって必須のものではなくなりました。それに伴って家紋の存在感が薄くなってしまったのかもしれません。

 家紋と言えば、大河ドラマによく登場する戦国武将を思い出します。織田信長は木瓜、明智光秀は桔梗、豊臣秀吉は桐、前田利家は梅、徳川家康は葵など。ここで、すこし疑問が出てきました。戦国武将たちの紋章には植物が多くモチーフとなっていることに、お気づきでしょうか。戦国武将の家紋は、なんで植物が多いのか?戦国武将といえば勇猛で植物を愛するような繊細な神経はないように感じますが、実は、彼らは、予想外に植物をめで、観察し、役立てていました。 たとえば、西洋の紋章のモチーフというと、ワシやライオンやドラゴンなど、いかにも強そうな生きものが多くあります。ですが、日本の戦国武将の家紋には、道端の小さな雑草などが多く使われています。たとえば、田畑に生えるカタバミやオモダカ、別名「貧乏草」のナズナ、可憐なナデシコなどなど。あの徳川家でさえ、地味で目立たないフタバアオイを家紋のモチーフにしています。西洋でも植物が紋章のモチーフになることはあります。ルイ王家はユリの花、フランス王家はアヤメの花、イギリス王家ではバラの花だ。どれも高貴で華麗な植物です。
 それに比べると、日本の武将たちの紋章は、ずいぶん地味でつつましいものです。もっと、強そうな生き物をモチーフにしてもよかったのでは、と思ってしまいます。
 実は、戦国武将たちが、好んで植物をモチーフにしたのには、それなりの理由がありました。
 ご存じ、「葵の御紋」。だが、葉が3枚あるこのような植物は、他には存在しません。ですが、皆さんよくご存じの「この紋所が目に入らぬか」の決めゼリフで知られる水戸黄門の家紋は、葵の御紋です。この葵の御紋がおそれ多いのは、将軍家である徳川家の家紋が葵の御紋だからです。
 一般には、単に「葵の御紋」と呼ばれていますが、正確には「三つ葉葵の御紋」です。  
 

「三つ葉葵の御紋」

その名のとおり、3つのハート型の葉が組み合わされた家紋です。葵というと代表的なのは、タチアオイ、トロロアオイなど、背の高い種類です。これらは正真正銘、アオイ科の植物です。

 ところが、三つ葉葵のモデルとなっている葵は、これらとは違うのです。「葵の御紋」のモチーフとなったフタバアオイ。ご覧のとおり、とても「地味」な植物です。実は、これはアオイ科ではなく、ウマノスズクサ科の植物なのです。見た目も、タチアオイが2メートル近い高さで鮮やかな花を咲かせるのに対し、フタバアオイは、山林の地面に生える小さな植物です。花も1センチあまりの茶褐色の小さな花で、お世辞にもきれいな花とはいえません。
 そもそもフタバアオイには、植物学的にも謎が多いようです。たとえば、フタバアオイの花の花粉をどんな虫が運んでいるのか、よくわかっていません。普通の植物はハチやアブが花粉を運ぶのに、フタバアオイの花粉を運んでいるのはヤスデだという説や、キノコバエが運んでいるという説があり、まだよくわかっていないのです。こんな地味な花を家紋に採用している国家君主など、徳川家以外にはいないのではないでしょうか。
 つぎに、田畑の雑草が家紋に用いられている理由を調べてみました。
 日本の家紋に用いられている十大紋は「鷹の羽、橘、柏、藤、沢瀉、茗荷、桐、蔦、木瓜、片喰」です。
このうち、沢瀉と片喰は雑草ですが、両方とも武将たちにたいへん人気があったのです。
 なぜ武将たちは、このような、取るに足らぬ雑草を家紋にしたのでしょうか。沢瀉は田んぼに生えている雑草で、生命力が強く、葉の形が鏃に似ていることから「勝ち草」とも呼ばれおり、ゲンを担いで家紋に用いられたのだといわれています。
 また、片喰紋は、徳川四天王の酒井忠次が家紋としています。カタバミは、抜いても抜いても種を残して繁茂していきます。戦国武将はそこに子孫繁栄の願いを込めて家紋にしたのではないでしょうか。
 戦国時代は下克上の時代でもあります。たとえば、斎藤道三も代表的な下克上大名で、「美濃のまむし」と恐れられていました。道三の用いていた家紋が、なんとかわいらしい「撫子」なのです。
「撫子」は、平安時代唐から伝えられました。当時「撫子」は「唐撫子」と呼ばれていました。
「唐撫子」は、別名「セキチク(石竹)」ともいわれています。「セキチク(石竹)」は岩場に生えて竹のような葉をつけるからです。
 中国の言い伝えでは、ある武将が虎と間違えて岩を矢で射たところ、岩に矢が刺さり、セキチクになったと言われています。この故事から、セキチクは武道の精神を表すとして、武家に好まれたのだそうです。
 また、戦国武将で悪名高い(個人的意見ですが)、下克上大名のひとりに、松永久秀がいます。この久秀の家紋はツタ(蔦)です。ツタは自立しないでほかの植物にからみつき、背を伸ばしていく図々しい植物です。普通の植物は、自分で立たなければならないので、茎を頑強にしていく必要があります。それには多大なエネルギーが必要です。ところがツタのようなつる草は、ほかの植物にからみつくため、自分で立つ必要がありません。茎も頑丈にする必要ないのです。その分、余ったエネルギーをつるを伸ばすことに使えるのです。だから伸びるのが早く、巻き付かれた植物のほうはたまったものでありません。ツタに覆われて陽の光も十分受けられなくなり、枯れてしまうこともあります。なるほど、ツタの生き方は、いかにも下克上大名にふさわしいと納得できます。戦国大名って植物の特性などを知っていたのですね。
 

 最後に、家紋には日本独自の美しさがあります。しかも、自分の家紋を知れば、自分のルーツは何かを知るヒントの一つになるかもしれません。正確なことはわからないかもしれませんが、家紋の由来や言われ、また自分の家紋が、歴史上有名な武将と同じであったり、「自分の先祖は武士だったのかな?」「家は蝶紋だから平家だった!?それとも・・・」などと想像するのも面白いではないでしょうか。そして、家紋を通じて、たまにはご先祖様の話をするのも良いのではないでしょうか。

ご自分の家紋は何ですか?是非調べてみて下さい。

参考文献

「徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか」(稲垣栄洋:静岡大学農学部教授)

「戦国時代人物事典」(学研:歴史群像編集部)

戦国武将「旗指物」大鑑(彩流社:加藤鐵雄)

                                   智の木協会 理事 吉信 勝之

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